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織田家
織田信長 おだ のぶなが (1534~1582) 織田家
織田信秀の嫡男。三英傑のひとり。幼名は吉法師。正室は斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)。尾張下四郡の守護代・清州織田家の家臣という家系でありながら、父から受け継いだ経済力を背景に尾張を統一する。1560年、桶狭間の戦いで「東海一の弓取り」といわれた駿河の今川義元2万5千の軍勢を2千の軍勢で破って天下に名を轟かした。1567年には斎藤龍興が治める美濃を攻略し、井ノ口を「岐阜」と改名して本拠に定め、勢力拡大に乗り出した。「天下布武」の旗印のもと、足利義昭、朝倉義景、浅井長政ら敵対勢力を次々と滅ぼし、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を駆使した戦術で武田勝頼に圧勝して戦のやり方に新風を吹き込んだ。旧体制に囚われない新秩序の構築によって身分の低い者でも能力次第で一国一城の主になれる新しい時代を生むが、その一方で比叡山の焼き討ちや長島一向一揆での大量虐殺など悲劇も多く生み、後半生は人々から恐れられた。1582年、宿敵武田家を滅ぼし天下統一が目前に迫るなか、家臣・明智光秀の謀反にあい本能寺に散る。光秀が謀反に及んだ理由は分かっていないが、光秀ほどの有能な家臣でさえ、次第に過激になっていく信長の新世界に未来を見い出せなくなっていたともいわれる。
<「信長公記」より 桶狭間の戦い前夜の様子>
此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか、
と候て、螺をふけ、具足をよこせ、と仰せられ、
たちながら御食をまいり、御物具召され、御甲めし候ひて御出陣なさる。
織田有楽斎 おだ うらくさい (1547~1621) 織田家
織田信秀の十男。信長の弟。千利休に師事した茶人としても有名で諱は長益。前半生の事はよくわかっていないが、織田信忠に従っていたという。本能寺の変のときも信忠と共に二条城に滞在していたが、無事脱出した。その後、豊臣秀吉、秀頼に仕え、大坂冬の陣の際には徳川家との和睦に尽力した。しかし、夏の陣では主戦派を抑えることができず、自分の居場所がなくなったことから豊臣家を離れた。戦後は茶人として趣味三昧の余生を送ったといわれる。
織田信勝 おだ のぶかつ (1536~1557) 織田家
織田信秀の二男。信長の弟。信秀の死後、「うつけ」と呼ばれる兄に代わって織田家の当主となるべく、柴田勝家らの助力を得て叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。一度は母・土田御前の仲介により許されたが、再び謀反を起こそうとしたところを、すでに信長に臣従を誓っていた勝家の密告で露見し、信長自身の手で殺された(信長の命を受けた河尻秀隆によって殺害されたとも)。
織田信雄 おだ のぶかつ (1558~1630) 織田家
織田信長の二男。父・信長に屈した伊勢の国司・北畠具教の養子となり第10代北畠家当主となった。本能寺の変後、徳川家康と組み、小牧・長久手の戦いで羽柴(豊臣)秀吉と対立するが、秀吉にうまくのせられて講和し、秀吉の傘下に入る形になってしまった。小田原征伐後、転封を拒否して改易となる。その後、御伽衆として秀吉に仕え、秀吉死後は家康に仕えて73年の天寿をまっとうした。
織田信包 おだ のぶかね (1543~1614) 織田家
織田信秀の四男。信長の弟。織田一門では、信忠、信雄に次ぐ地位にあり、信長の三男・信孝よりも上位に位置した。伊勢攻略をはじめ、各地を転戦して活躍、近江浅井家が滅亡した際には、浅井長政に嫁いでいたお市の方(信長の妹)とその娘たち(茶々・初・江)を保護した(諸説あり)。本能寺の変後は、羽柴(豊臣)秀吉に従い、関ヶ原では西軍に属すが、敗戦後に徳川家康からの咎めなく、所領は安堵された。その後は、大坂城に入って秀頼の補佐にあたり、大坂冬の陣直前に病没した。
織田信孝 おだ のぶたか (1558~1583) 織田家
織田信長の三男。父・信長に屈した伊勢の有力国人・神戸具盛の養子となって家督を継いだ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴(豊臣)秀吉と対立するが、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家が北ノ庄で自害すると、岐阜城を開城して降伏した。降伏後、野間大坊に送られ切腹を言い渡される。その際詠んだ辞世の句には秀吉への強い恨みが込められている。
<辞世の句>
昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
織田信忠 おだ のぶただ (1557~1582) 織田家
織田信長の嫡男。母は側室の吉乃。激情的な父と違い温厚で人望も高かったといわれる。元服すると尾張と東美濃の支配を任され、長篠の戦い後に家督を譲られたが、実権は父・信長に握られていた。1582年、甲州征伐で総大将をつとめて武田勝頼を天目山で自害に追い込み、武田家を滅亡させる。この武勲は信長を喜ばせ、織田家の跡取りとして将来を期待されたが、信長に同行した京都で明智光秀の謀反にあい二条城で自害した(本能寺の変)。父と同時という早すぎる死が、羽柴(豊臣)秀吉に織田家乗っ取りの機会を与えてしまい、秀吉天下取りのきっかけとなったといわれる。
織田信友 おだ のぶとも (1516~1555) 織田家
尾張守護・斯波家の家臣。尾張下四郡の守護代・清州織田家の当主。本来家臣筋である織田信秀と対立する。のちに和睦をするが、信秀死後、家督を継いだ信長と再び対立した。信長暗殺の謀略を主君・斯波義統に知られ信長に密告されると、義統を暗殺した。その後、義統の子・義銀が信長を頼ったため、大義名分を得た信長に攻められ、最後は信長の叔父・信光に討たれた。
織田信秀 おだ のぶひで (1510~1551) 織田家
尾張下四郡守護代・清州織田家の三奉行のひとり。信長の父。「尾張の虎」の異名をもつ猛将であると同時に経済感覚に優れ、津島湊の流通が生み出す経済力を背景に主家を上回る実力を誇った。守護代の家臣という立場でありながら、美濃の斎藤道三、駿河の今川義元と渡り合うが、1546年の美濃攻めの敗北に続いて、1548年の第二次小豆坂合戦でも今川・松平連合軍に敗退して窮地に追い込まれ、これが斎藤道三の娘・帰蝶を嫡男・信長の嫁に迎えて同盟を結ぶきっかけとなった。1551年、この窮地を打開できないまま流行病で亡くなった。享年42。
織田信広 おだ のぶひろ (?~1574) 織田家
信秀の子(母は側室)。信長の庶兄。第二次・小豆坂の戦いの敗戦後、安祥城の守りを任された。第三次・安城合戦では、今川・松平連合軍を相手に本多忠高(忠勝の父)を討ち取るなど活躍したが、第四次・安城合戦で今川家の軍師・太源雪斎に捕らえられ、当時、織田家の人質となっていた竹千代(のちの徳川家康)との人質交換で尾張へ帰還した。信秀の死後、美濃の斎藤義龍と組んで信長に反旗を翻そうとしたが、事前に知られ降伏、以後は二心なく信長に仕えた。1574年の第三次・長島一向一揆攻めで、窮鼠と化した宗徒の反撃を受けて討死した。
織田信康 おだ のぶやす (?~1544?) 織田家
信秀の弟。兄・信秀を助け、尾張上四郡の守護代・岩倉織田家の砦を改修して犬山城を築城した。信秀に従って参加した加納口の戦いで、斎藤道三と戦い討死した。死後、子の信清が家督を継いで犬山城主となったが、信秀死後、信長と対立して敗れ甲斐へ逃亡している。
織田秀信 おだ ひでのぶ (1580~1605) 織田家
信忠の嫡男。信長の嫡孫。幼名は三法師。本能寺の変後の清須会議で羽柴(豊臣)秀吉の斡旋を受け、わずか3歳で織田家の家督を継いだ。まだ幼かったため、叔父の信雄や信孝が後見人となったが、秀吉の傀儡にすぎず、次第に家中を乗っ取られていった。関ヶ原の戦いでは西軍につき、岐阜城で籠城するが、東軍の激しい攻撃にあい降伏開城する。西軍の敗戦後、高野山に追放され、しばらくして亡くなった。
明智光秀 あけち みつひで (1528~1582) 織田家
美濃国・土岐明智家の出身。前半生は謎が多く、よく分かっていないが、長良川の戦いのときに斎藤道三に与したため、道三が子の義龍に敗れると流浪の身になったといわれる。流浪の末、幕臣であった細川藤孝を介して越前朝倉家に身を寄せていた足利義昭に仕え、義昭上洛の助力を得るための使者として美濃を平定した織田信長と出会う。信長の力を借りて上洛を果たし、義昭を征夷大将軍につけた後は義昭、信長両者に仕えたが、二人が対立すると信長の家臣となった。浅井、朝倉、本願寺攻め、比叡山の焼き討ちなどで抜群の戦功を挙げ、新参者でありながら、近畿方面軍の総大将にまで登り詰める。しかし、1582年、中国攻めの後詰めに赴く途中で、突如軍を返して京都・本能寺に滞在していた信長を討つ。本能寺の変に至る原因は、怨恨説、野望説、義憤説など諸説あり分かっていないが、変後の事後調略に精彩を欠き、「中国大返し」をしてきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃亡中に落ち武者狩りにあい亡くなった。
<辞世の句>
順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
心しらぬ 人は何とも 言はばいえ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ
明智秀満 あけち ひでみつ (1537~1582) 明智家
明智光秀の娘婿。従弟ともいわれる。光春、左馬助など多くの別名も存在する。筆頭家老として斎藤利三らと共に光秀を支え、主に丹波攻略で活躍して丹波福知山城を任された。本能寺の変に参加した後は安土城に入るが、山崎の戦いで光秀が羽柴(豊臣)秀吉に敗北すると、明智家の居城・坂本城に移った。秀吉方の堀秀政に坂本城を包囲されると、抵抗をあきらめ、光秀が所有した天下の名物、財物を秀政に託し、光秀の妻子と自身の正室らを介錯したのち自害した。伝説として、安土から坂本へ向かう途中、大津で堀秀政と遭遇すると、馬で琵琶湖に飛び込み、湖を渡って逃れたというものがある(明智左馬助の湖水渡り)。
斎藤利三 さいとう としみつ (1534~1582) 明智家
明智家臣。斎藤道三とは違い本来の美濃斎藤家の家系。末娘の福は徳川幕府3代将軍・徳川家光の乳母・春日局。斎藤龍興に仕えていたが、美濃三人衆のひとり、稲葉良通(一鉄)が織田信長に内応するとそれに従った。後に明智光秀に高禄で引き抜かれ明智秀満と並ぶ筆頭格の家老となる。本能寺の変に参加したのち、山崎の戦いにも参加して先鋒として奮戦するが、敗れて逃亡する。しかし、最後は捕縛され京の六条河原で処刑された。
安田作兵衛 やすだ さくべえ (1556~1597) 明智家
美濃安田村の出身で、明智光秀の重臣・斎藤利三に仕えた。諱は国継。本能寺の変で織田信長に一番槍の手傷を負わせ、森蘭丸(成利)に下腹部を刺されながらも蘭丸を討ち取る武功を挙げた。山崎の戦いでは蘭丸から受けた傷の療養で参戦していない。山崎の戦い後は、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂ら仕えたが長続きせず、最後は寺沢広高に8千石で召し抱えられた。広高とは親友で、どちらかが出世したら石高の十分の一で召し抱える約束をしたという逸話があり、広高が約束を守る形となった。
池田恒興 いけだ つねおき (1536~1584) 織田家
織田家臣。母が織田信長の乳母をつとめていたため、信長とは乳兄弟という間柄。桶狭間の戦いや姉川の戦いなど各地を転戦して武功を挙げた。摂津一国任されていた荒木村重が謀反を起こすと、その鎮圧にも貢献し、鎮圧後に村重に代わって摂津の支配を任される。本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に味方して山崎の戦いに参加し、四宿老の一人として参加した清州会議でも秀吉に味方した。1584年の小牧・長久手の戦いでも羽柴方として参戦するが、膠着状態打開をねらった三河への進軍で徳川家康の追撃にあい討死した。
池田元助 いけだ もとすけ (1559?~1584) 織田家
織田家臣。恒興の子。弟に輝政がいる。父と共に荒木村重討伐で活躍した。その後、単独行動もするようになり、甲州征伐では、明智光秀の与力として参加した。光秀が中国攻めをしていた羽柴秀吉の援軍を命じられたときも、光秀の与力として参加する予定であったが、光秀が本能寺の変を起こしたため、そのもとを離れた。秀吉方として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いで活躍したが、1584年の小牧長久手の戦いで、父と共に討死した。
金森長近 かなもり ながちか (1524~1608) 織田家
織田家臣。茶人としても知られ文献によっては「利休七哲」に数えられることもある。弟には「落語の祖」と謳われる安楽庵策伝がいる。18歳のときに尾張の織田信秀に仕官し、次いで信長に仕えて赤母衣衆に抜擢され長篠の戦いなどで活躍した。のちに柴田勝家の与力となり、賤ヶ岳の戦いでも柴田方として参加したが、前田利家と共に戦線を離脱して敗北のきっかけをつくった。その後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えて飛騨一国を与えられ、秀吉死後は徳川家康に接近して東軍として関ヶ原の戦いを戦い、美濃国内などに1万8千石を加増された。
河尻秀隆 かわじり ひでたか (1527~1582) 織田家
織田家臣。黒母衣衆筆頭。信秀、信長二代にわたって仕えた。信長の信頼厚く、信長の弟・信勝を謀反を企てた罪で清州城に呼び寄せたときには、殺害を実行したともいわれる。信長の尾張統一後は桶狭間の戦い、姉川の戦い、志賀の陣など各地を転戦して武功を挙げる。信長の嫡男・信忠が元服すると補佐役となり、長篠の戦いでは、まだ若輩の信忠に代わって指揮をとった。甲州征伐では滝川一益と共に軍艦として活躍し、武田家滅亡後に甲斐一国を与えられる。しかし、本能寺の変で信長が亡くなると、武田家遺臣たちの逆襲にあい殺害された。
九鬼嘉隆 くき よしたか (1542~1600) 織田家
九鬼(志摩)水軍の頭領。のちに海賊大名の異名をとった。伊勢国司・北畠具教との戦いに惨敗して一度没落するが、織田家臣・滝川一益を介して織田信長に与するようになり、北畠家攻略で活躍して家臣団に迎えられた。1576年、第一次木津川口の戦いで、本願寺に味方した毛利水軍800隻を300隻で迎え撃つが惨敗。しかし、2年後の第二次木津川口の戦いでは6隻の鉄甲船を率いて毛利水軍に快勝した。本能寺の変後は織田信雄に仕えたが、小牧・長久手の戦いで羽柴(豊臣)秀吉方に寝返り、その後も水軍の頭領として重用された。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、敗戦後に自害する。東軍についた嫡男・守隆が家康に助命嘆願し了承を得ていたが、間に合わなかった。
佐久間信盛 さくま のぶもり (1527~1581) 織田家
織田家臣。信秀、信長二代にわたり仕えた。退却戦を得意としたことから「退き佐久間」の異名をとった。信秀の死後、柴田勝家や林秀貞が信長の弟・信勝に味方する中、最初から信長に味方して筆頭格の扱いを受けた。桶狭間の戦いをはじめ多くの戦いで武功を挙げ、本願寺攻めで塙(原田)直政が討死すると、その後任となって織田家中最大の軍団をあずけられた。しかし、本願寺に対して積極的な軍事行動を行わなかったため、1580年に本願寺との和議が成立すると、信長に19条に及ぶ折檻状を突きつけられ追放された。一時、高野山に登るも、そこでの滞在も許されず、紀伊熊野で失意のうちに亡くなった。
佐久間盛政 さくま もりまさ (1553~1583) 織田家
織田家臣。「鬼玄蕃」の異名をとった猛将。柴田勝家の甥で佐久間信盛の従叔父。柴田勝家が越前一国を与えられたときに勝家の与力となり、常に先鋒をつとめて北陸平定戦で活躍した。賤ヶ岳の戦いでは中川清秀の砦を急襲して清秀を討ち取るが、勝家の命令を無視したことで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の反撃にあい柴田軍の敗因をつくった。戦後捕らえられ、秀吉から家臣になるよう誘われるが、それを断り、勝家への忠義をつらぬいて処刑された。
佐治一成 さじ かずなり (1569?~1634) 織田家
織田家臣。尾張大野城主。佐治信方の子。母は織田信長の妹・犬。佐治家は水軍を率いて伊勢湾交通を掌握していたため、信長や豊臣秀吉に重要視された。幼くして父・信方が長島一向一揆討伐で討死すると、織田長益(有楽斎)の後見を受けて家督を継ぐ。本能寺の変後は、織田信雄に属し、信長の姪・お江(のちの徳川秀忠正室)を娶ったが、小牧・長久手の戦いで徳川家康を助けたことが秀吉の逆鱗に触れ、離縁させられたうえ、改易となった(諸説あり)。
佐々成政 さっさ なりまさ (1536~1588) 織田家
織田家臣。信長の黒母衣衆をつとめた。柴田勝家が北陸方面軍の指揮官となるとその与力として活躍し、前田利家、不破光治らと共に府中三人衆のひとりに数えられた。本能寺の変後も勝家に従い羽柴(豊臣)秀吉と対立するが、賤ヶ岳の戦いでは上杉家の抑えとして残されたため戦いには参加していない。勝家死後も秀吉とは敵対し、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康に味方した。戦いが膠着状態となり和睦の動きが出てくると、後に「さらさら越え」と呼ばれる冬山越えを行い、家康に戦闘の継続を直談判するが聞き入れられず、最終的には秀吉に降伏した。その後、九州征伐の功で肥後一国を与えられるが、秀吉の命に逆らって国人衆と対立してしまい、さらに自身で事態を収拾できなかったため、切腹させられた。
佐脇良之 さわき よしゆき (?~1572) 織田家
織田家臣。前田利昌の五男。利家の実弟。佐脇家の養子となり、兄・利家と共に織田信長の小姓として仕え始めた。岩倉織田家との戦い(浮野合戦)で活躍し、のち赤母衣衆に抜擢される。桶狭間の戦いで、信長は今川義元の所在を知ると、5騎だけを従えて城を飛び出すが、そのうちの1騎は良之だった。伊勢侵攻に参加したのち、信長の勘気を被り出奔(理由は定かでない)。その後、徳川家康のもとで参加した三方ヶ原の戦いで討死した。
柴田勝家 しばた かついえ (1522~1583) 織田家
織田家筆頭家老。信秀、信長に仕えた。「鬼柴田」、「かかれ柴田」、「瓶割り柴田」の異名をもつ織田家随一の猛将。信秀の死後、信長の弟・信勝に与して信長と対立するが、稲生の戦いで信長に敗れると、その才覚を認め忠誠を誓った。信勝が再び信長に叛旗を翻そうとした時には、これを密告して大事になることを防いが、しばらくは重用されず、信頼を回復したのは足利義昭を奉じて上洛をした1568年頃だといわれる。それ以後は順調に武功を重ねて越前を与えられ、北陸方面軍の総大将として能登、越中への進出を果たす。本能寺の変のときは、越中魚津城を攻略中で軍を返すことができず、主君の仇討ちで羽柴(豊臣)秀吉に遅れをとり、さらに清須会議でも秀吉に主導権を握られた。会議の直後、秀吉に対抗するため、信長の妹・お市の方を娶って織田家と血縁を結んだが、たいした効果は得られずに賤ヶ岳の戦いで敗れ、撤退した居城・北ノ庄城でお市の方と共に自害した。
<辞世の句>
お市: さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな
勝家: 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
滝川一益 たきがわ かずます (1525~1586) 織田家
織田家臣。近江国甲賀の出身といわれるが、様々な説があり、その半生はよく分かっていない。桶狭間の戦いの数年前には信長に仕えており、登用された理由は鉄砲の腕前によるものだといわれている。信長の主だった戦のほとんどに参戦して活躍。第二次木津川口の戦いでは鉄甲船の建造にも携わった。信長の嫡男・信忠が総大将をつとめた甲州征伐では河尻秀隆と共に軍監をつとめ、その中で武田勝頼を天目山で自害に追い込む武功を挙げて、戦後、関東方面軍の総大将となった。しかし、その直後に本能寺の変が起こり、さらに神流川の戦いで北条家に惨敗。さらに方面軍司令官でありながら清須会議に間に合わず、賤ヶ岳の戦いでも柴田勝家に味方して敗北し、家中内での勢力は著しく低下した。その後もたいした武勲は挙げられず、最後は羽柴(豊臣)秀吉から与えられたわずかな所領で失意のうちに病死した。
丹羽長秀 にわ ながひで (1535~1585) 織田家
織田家臣。もとは尾張守護・斯波家の家臣の家柄だが、父の代から織田家に仕えたため、若くして信長に仕えた。軍事、内政、あらゆる方面で活躍し、なくてはならない存在であったことから「米五郎左」の異名をとった。信長の信頼厚く、安土城の総普請奉行や四国方面軍司令となった信長の三男・信孝の補佐役など常に重責を担う。本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉と合流して山崎の戦いに参戦し明智光秀を討った。その後の清須会議でも秀吉を支援して柴田勝家を窮地に追い込み、賤ヶ岳の戦いにも参加して秀吉の勝利に貢献している。勝家の死後、若狭に加え越前も拝領して123万石の大大名となるが、次第に織田家をないがしろにしていく秀吉を見て後悔しながら亡くなったといわれる。
丹羽長重 にわ ながしげ (1571~1637) 丹羽家
長秀の長男。本能寺の変後、父と共に羽柴(豊臣)秀吉に従い賤ヶ岳の戦いに参加。小牧・長久手の戦いでは病床にあった父の代理として出陣した。父の死後、123万石という大領を継ぐが、秀吉に何かと難癖をつけられ一時期は4万石まで落ちぶれた。小田原征伐後に加賀小松12万石まで復帰したが、関ヶ原では西軍について改易された。その後、常陸国内に1万石を与えられて復帰。大坂の陣後には徳川秀忠の御伽衆として召し出され最終的には陸奥国白河10万石を拝領した。
太田一吉 おおた かずよし (?~1617) 丹羽家
丹羽家臣。長秀、長重の二代にわたって仕えたが、長重が減封となると豊臣秀吉の直臣となった。秀吉のもとで九州征伐、小田原征伐に従軍、文禄の役では軍目付として参加し、大友義統が改易になると豊後臼杵城を与えられ6万5千石を領有した。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、本戦で西軍が負けても降伏せず、中川秀成と戦った。黒田孝高(官兵衛)の説得でようやく降伏し改易となるが、孝高の口添えにより助命されて剃髪し、京都で隠棲した。
戸田勝成 とだ かつしげ (?~1600) 丹羽家
丹羽家臣。勝隆の弟。兄と同様、勇将として名を馳せ、主君・丹羽長秀に従って山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに参加した。長秀が亡くなり跡を継いだ長重が減封となると豊臣秀吉の直臣となった。その後、九州征伐に従軍。小田原征伐、文禄の役にも参陣した。関ヶ原の戦いでは石田三成に呼応して西軍に属し、関ヶ原本戦で大谷吉継のもと平塚為広らと共に奮戦したが討死した。関ヶ原では嫡男も討死したため、戸田家は断絶した。
溝口秀勝 みぞぐち ひでかつ (1548~1610) 丹羽家
丹羽家臣。幼少から丹羽長秀に仕えていたが、織田信長に才覚を認められ直臣となった。本能寺の変後は123万石の大身となった長秀の与力として、再び長秀に従った。長秀の死後、長秀の子・長重が減封となると、堀秀政の与力となる。1598年、上杉景勝の会津転封にともない、越後・新発田6万石を拝領した。関ヶ原の戦いでは東軍に属して所領を安堵され、新発田藩の礎を築いた。
長谷川秀一 はせがわ ひでかず (?~1594) 織田家
織田家臣。信長に小姓として仕え、のちは奉行として活躍した。本能寺の変が起きた時は、信長の命で徳川家康の堺見物に同行しており、家康と共に伊賀越えをして尾張まで逃げ延びた。その後は羽柴秀吉に仕え、小牧長久手の戦い、紀州征伐、九州征伐、小田原征伐などで活躍したが、文禄の役で朝鮮に渡って病を得てしまい同地で没した。帰国後に死去したという説もある。
服部小平太 はっとり こへいた (?~1595) 織田家
織田家臣。諱は一忠。信長の馬廻として仕えた。桶狭間の戦いでは今川義元に一番槍をつける活躍をしたが、義元の反撃で膝を負傷したため、討ち取ることができず、同僚の毛利良勝(新介)が義元を討ち取っている。その後、織田家臣として目立った活躍はないが、本能寺の変後に豊臣秀吉の黄母衣衆に抜擢され、小田原征伐後に伊勢松坂3万5千石を得て豊臣秀次に付けられた。文禄の役にも参加して活躍したが、秀次事件に連座して切腹を命じられた。
林秀貞 はやし ひでさだ (1514~1580) 織田家
織田家臣。信秀、信長に仕えた。信長付の筆頭家老でありながら、信長の父・信秀が亡くなると信長の弟・信勝を擁立した。信勝が信長に敗れると降伏して家老に復帰し、信長が嫡男・信忠に家督を譲ると信忠付となった。しかし、1580年に突如、24年も前の信勝擁立を蒸し返され追放された。追放時には、すでに高齢であり、しばらくして亡くなったといわれる。
塙直政 ばん なおまさ (?~1576) 織田家
織田家臣。本姓は「塙」、のちに原田姓を賜った。赤母衣衆をつとめたのち、信長が上洛を果たすと、畿内の政務を担当、南山城と大和の支配を任された。戦では主に本願寺(一向宗)との戦いで活躍。長篠の戦いでは鉄砲奉行もつとめた。柴田勝家、丹羽長秀と同等の権勢を誇っていたが、1576年の石山本願寺攻めで討死した。直政死後、塙一族は敗戦の責を負わされ没落した。
平手政秀 ひらで まさひで (1492~1553) 織田家
織田家臣。信秀、信長の二代に渡って仕え、信長の傅役をつとめた。茶道、和歌にも通じた文化人で、信秀の名代として朝廷との交渉役や信長と斎藤道三の娘・帰蝶の婚姻をまとめるなど外交で活躍した。信秀の死後、信長の弟・信勝を擁立する動きがでるなど、家中が混乱する中で、信長の奇行を諫めるために自刃したといわれる(諸説あり)。
平手汎秀 ひらで ひろひで (1553~1572) 織田家
織田家臣。政秀の三男、または孫といわれる。織田信長のもとで石山本願寺攻めなどで活躍した。1572年、佐久間信盛、水野信元と共に徳川家康の援軍として三方ヶ原の戦いに参加するが、武田軍の追撃を振り切れず討死した。信長に目をかけられた武将であったため、のちに佐久間信盛が追放されたとき、信盛につきつけられた19ヶ条に及ぶ折檻状の中に、汎秀を見殺しにして退却したという内容がある。
不破直光 ふわ なおみつ (?~1598) 織田家
織田家臣。光治の子。父と共に織田信長に仕え、柴田勝家が北陸方面軍司令となり、父が勝家の与力になると直光もこれに従った。父の死後、跡を継いで府中三人衆のひとりとして活躍し、本能寺の変後も勝家に従って賤ヶ岳の戦いの戦いに参加した。敗戦後は前田利家の家臣となり佐々成政との末森城の戦いで活躍した。
堀秀政 ほり ひでまさ (1553~1590) 織田家
織田家臣。信長の側近。文武に優れ、様々ことをそつなくこなしたことから「名人久太郎」と呼ばれた。信長の元で、各種奉行職をつとめ、越前一向一揆討伐や紀伊雑賀討伐など、戦にも参加した。羽柴(豊臣)秀吉が中国方面軍の総大将になると、軍監として派遣され、本能寺の変が起こると、秀吉に従って上方へ取って返し、山崎の戦いで先陣をつとめた。清須会議後も秀吉に従い、小牧・長久手の戦いでは味方が大敗を喫するなか、徳川家臣・榊原康政隊を待ち伏せして敗走させるなど活躍して、越前北ノ庄に18万石を得た。九州征伐を経て小田原征伐にも参陣するが、小田原城を包囲中に病を得て38歳の若さで陣中に没した。小田原征伐後にまだ生きていれば、秀吉は関八州を秀政に与えようとしていたといわれる。
前田利家 まえだ としいえ (1538~1599) 織田家
織田家臣。前田利昌の四男。「槍の又左」の異名をもつ勇将で豊臣秀吉の親友としても知られる。信長の小姓として仕えはじめ、赤母衣衆筆頭に抜擢された。一時不興をかって浪人することもあったが、槍働きで信用を取り戻し、後に信長の命によって前田家を継いだ。織田家の勢力が広がると、柴田勝家の与力として北陸平定戦で活躍する。本能寺の変後も勝家に従うが、賤ヶ岳の戦いで親友である秀吉と対峙すると、親同然のように慕っていた勝家との間で板挟みとなり戦線を離脱、柴田軍の敗因をつくった。しかし、純真実直な人柄からか勝家からの咎めはなく、逆に秀吉を頼るように勧められ、勝家の死後は秀吉に仕えて加賀百万石の礎を築いていくことになる。豊臣政権下では五大老のひとりとして徳川家康に匹敵する人望があり、秀吉からも豊臣家の将来を託されていたが、秀吉の死から1年もたたないうちに亡くなり、家康の専横を許すことになった。
前田利長 まえだ としなが (1562~1614) 前田家
利家の嫡男。加賀藩初代藩主。九州征伐、小田原征伐に参加して活躍した。父・利家の死後、五大老の職を継いで豊臣秀頼の傅役となったが、徳川家康の老獪さに翻弄され、家康暗殺計画をねつ造されると、母・芳春院(まつ)を人質に出して家康に臣従した。関ヶ原では東軍として北陸で丹羽長重と戦い、戦後、加賀・能登・越中の3ヶ国、合わせて120万石を得る。しかし、拡大した領地経営のために大きく膨れ上がった家臣団内で派閥争いが起きるようになり、悩まされた。1605年、異母弟・利常に家督を譲って隠居。1610年ごろから病(梅毒とも)が悪化し始め、14年に京都に隠棲し亡くなった。
前田利政 まえだ としまさ (1578~1633) 前田家
利家の次男。母は正室の芳春院(まつ)。賤ヶ岳の戦い後、父・利家が能登に加えて加賀半国、越中三郡を得ると能登七尾城主となった(のち小丸山城に移る)。関ヶ原の戦いで西軍寄りの態度をとったため、戦後改易された。その後、京都に隠棲し、長女の嫁ぎ先で亡くなった。子の直之は、加賀藩2代藩主・利常に召しだされ前田土佐守家を立てた。
前田利常 まえだ としつね (1594~1658) 前田家
利家の四男。加賀藩2代藩主。母は側室・東丸殿。正室は徳川秀忠の次女・珠姫。異母兄・利長の養子となり、1605年の利長隠居に伴い家督を継いだ。1614年には大坂冬の陣に徳川方として参加。真田幸村が守る真田丸を攻めるが惨敗した。父・利家や従兄・慶次(利益)のような傾奇者気質で度々、幕府に目を付けらることもあったが、それらをうまくかわして加賀百万石の地位を守った。治水や農政事業を行うと共に美術、工芸、芸能を奨励するなど政治、文化において多大な功績を残し、加賀藩を繁栄させた。
奥村助右衛門 おくむら すけえもん (1542~1624) 前田家
前田家臣。諱は永福、家福とも。利昌(利家の父)、利久(利家の兄)に仕え、利家が家督を継ぐと一時浪人するが、のちに帰参して柴田勝家の与力となった利家を支えた。利家が加賀に入ると、末森城を与えられ、柴田勝家の死後、敵対した佐々成政1万5千の軍勢を相手に3百の兵で利家の援軍到着まで粘り撃退した。利家が亡くなると家督を譲って隠居するが、家中における影響力は大きく、大坂の陣では金沢城代をつとめるなどしている。晩年には、派閥争いが激しくなる家中において、事が大きくならないよう調停役をつとめたともいわれる。
村井又兵衛 むらい またべえ (1543~1605) 前田家
前田家臣。諱は長頼。利久(利家の兄)、利家に仕えた。利家が織田信長の不興をかって一時浪人した時も、帰参が叶うまで利家に従っていたため、利家からは絶大な信頼を得ていたといわれる。戦場では常に利家と共にあり、利家の危機を何度も救ったという。利家が加賀の大名になると、家老として奥村助右衛門(永福)らと共に加賀百万石の礎を築いていくのに貢献した。利家が亡くなると隠居するが、徳川家康によって前田家に謀反の疑いがかけられると、交戦を回避するために人質となった利家の正室・芳春院に従って江戸に下った。
村井貞勝 むらい さだかつ (?~1582) 織田家
織田家臣。近江国の出身だが、早い段階で信長に仕え、優れた政治手腕で重用された。信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、羽柴(豊臣)秀吉や丹羽長秀らと共に諸政務に携わり、二条城の造営や京都御所の修復などを行った。義昭追放後は、京都所司代となって京都における一切の政務を任され、京都馬揃えの準備も担当、その権勢から宣教師ルイス・フロイスは貞勝を「都の都督」と評している。1582年、本能寺の変に巻き込まれ、信長の嫡男・信忠と二条城に籠って明智軍と戦うが討死した。
毛利新介 もうり しんすけ (?~1582) 織田家
織田家臣。諱は良勝。信長の馬廻衆として仕え、桶狭間の戦いでは服部一忠(小平太)を助けて今川義元を討ち取った。その後、黒母衣衆のひとりに抜擢され、信長の側近として活躍する。本能寺の変の際にも、信長に従って在京しており、信長の嫡男・信忠を守って二条御新造で奮戦したが討死した。
森可成 もり よしなり (1523~1570) 織田家
織田家臣。美濃国出身だが、早くから信長に仕えて、尾張統一に貢献し、桶狭間の戦いにも参加した。信長上洛戦、姉川の戦いでも活躍し、宇佐山城の城将として南近江の守備を任されるが、志賀の陣の前哨戦・坂本の戦いで延暦寺の助力を得た浅井・朝倉連合軍と奮闘の末、討死した。
森長可 もり ながよし (1558~1584) 織田家
織田家臣。可成の次男。「鬼武蔵」の異名をとった猛将。正室は池田恒興の娘。兄は若くして討死、1570年に父・可成も討死したため家督を継いだ。甲州征伐での功で海津城と信濃川中島四郡20万石を与えられるが、本能寺の変が起こると、信濃国衆の反撃を受けて旧領・金山へ撤退した。その後、羽柴(豊臣)秀吉に接近して東美濃を制圧する。1584年、秀吉方として参加した小牧・長久手の戦いで、岳父・恒興と共に三河への中入りを進言して実行するが、徳川家康に動きを読まれて追撃を受け、恒興と共に討死した。
森蘭丸 もり らんまる (1565~1582) 織田家
織田家臣。可成の三男。諱は成利。利発で眉目秀麗であったため、信長の寵愛をうけ小姓として仕えた。のちに事務官、使者としても活躍したといわれる。1582年、本能寺の変で信長を守るため、明智勢相手に奮戦するが、弟の坊丸、力丸と共に討死した。